「ほっ」と。キャンペーン

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「ブッタ生誕祭」

多民族国家のネパールは、祭りがやたら多く、聞くところによると正月は9回あるという。
(写真右:ボダナートまでの道、遠くに仏教の旗が掲げてあるのが見える)c0158636_155940100.jpg

先週は、パタンで「マッチェンドラナート祭」
雨の恵みを与えてくれた神に感謝し山車巡業を3日間かけて行う。古都の狭い道を高々した柱の山車が人力で動くのだが、日本の祭りでいうならだんじり祭りの激ユル版。
これが非常にネパールらしく、肝心の高い高い柱が斜め(笑)。。。ただでさえ山車の車幅ギリな道のに。。。バランス取れないし、建物に当たる。。。そりゃ歩いて15分の距離を3日間かけるわけだ。
山車がグワァ~っと動いて人々もウワァ~っとなる祭り(笑
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ネパール暦バイサーク月(4~5月)の満月に当たる今日は、ネパールで生まれたお釈迦様の誕生日。朝から近所の爆音バジャン(宗教歌)で目が覚める。
雨が降ったり止んだりするこの時期は、空気が浄化されて気持ち良い。
聖地「ボダナート」で多くの巡礼者とともに、仏塔の周りをマニ車回しながらコルラする。
年寄りも若者のみんな同じ方向に歩く。1日に108回コルラする人は、夕方ごろには早足になっていたり。c0158636_163098.jpg
ヨガ友のドイツ人、1年半前にインドで出会った旅友、チベット仏教研究者、元仏像彫り師などなど、ネパールの大切な祭りの聖地でちゃんと出会えて嬉しい再会。
朝起きてから、ず~~っと友人コネクションを渡り歩き、談話する。
出会う旧友も新しい友人もみんな、本当に良い笑顔。
国籍超えて平和を分かち合い、願う。


今日も素晴らしく平和で穏やかで楽しい1日だった。そんな日々に感謝。
さすが寺院や祠に囲まれ、日々の祈りと欲望に渦巻くカオス。
最近、出会う人々の人生がやたらと心に沁みいる毎日。
味わい深い毎日は、時間がとても早く過ぎ去る。
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旅感が出てきた。

カイラス山への巡礼が無事でありますようにと合唱。

すっかり日が落ちて、バスが無くなった20時半、白く輝く満月がニッコリ微笑んでくれた。
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by laidbacktrip | 2010-05-28 16:13 | ネパール | Comments(0)

空耳アワー

友人がくれた曲なんですが、
「EGO-WRAPPIN`」の「満ち汐のロマンス」っていうアルバム内に、
「サイコアナルシス」っていう曲があって、
その曲の頭出しのところで、ボーカルが叫ぶんですが、

それが、


「シヴァァァァァ!!!!!!」としか聞こえません。。。。 
 

これはヒンドゥー病でしょうか? 笑
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by laidbacktrip | 2010-05-25 02:35 | ネパール | Comments(0)

「インドから我が家へ、ヨガ グルジが来た」

14歳からインド、ヒマラヤの奥地の洞窟で修行をしつづけ、
人々に本来の平和をもたらすために神の申子として生きるババジ。
グルジ。本物のヨギー。
内なる平和を見つける手助けをしてくれる。

インド、JKから初めて友人を訪ねてカトマンズに来たババジ。
4日間の滞在中、初日に友人宅で会って、その後2日間我が家へ来てくれた。

要するに、インド12年一度の裸の祭典、あの「クンブメーラ@ハリドワール」から、
サドゥー(ナガババ)がうちの部屋に来ちゃったってわけ。


普通に一緒にお茶してビスケットかじって話してんだけど、窓の外は大雨、嵐の夜。
明日の朝、ババジはインドへ帰る。
最後の晩餐@うちの部屋。
ドラマチックでお茶目なババジと最後の晩餐。
我が家夫婦、友人、ババジの4名で宇宙系精神レベルトーク。
外は大雨、雷の音。
帰るタイミング無し、深い話と笑い、知恵の泉は枯れることない。チャーミングなババジ。
そのうち、雨止めの儀式、瞑想。体がついてきてない旦那にはクリヤヨガを直々に伝授。
ヨギでない旦那も、目の前でババジから伝授されては、もうさけられない道。


神の申子の仕事は、全くもってビックワークでも何でもないと、ババジは言う。
太陽は毎日地球を照らし、
月も毎日自分の仕事をしている、太陽系すべて、
自分の心臓も休むことなく動き続け、
呼吸も吸う吐くを寝る間もなく働き続けている。
これらに比べ自分はどうだろうか?
これらにしたら、自分の仕事なんてビックワークでもなんでもないだろう。
神がビックワークだと。
そして、
何故、人間はこの地球上に生まれ、死んでいくのか?
この答えを知る者は10%。
90%の者は知らずに輪廻転生を繰り返している。

との前置きで始まるスーパービックストーリー。
自分の輪廻転生を熟知し、カルマを理解し、現世の役目を果たしながらこの世を見ている人。
そこへ、ズッコ家夫婦ツッコミも入れたりして、もうジョークなのか、小説なのか、漫画か映画か、本当か嘘なのか、わけわからないが現実。

ここからは、私の浅はかな知恵では、ブログ上に書ききれないし、長すぎて書けないよ。笑
(友人にもらったi-podで録音しました。UPしませんので、聞きたい方ご連絡ください。いつか日本語に翻訳して裏ズッコ家通信として公開しようかな~)


どんな話しても、最終的には自然と神様の話しか出てこないババジ。
そりゃそうだ。ババジが話しているんじゃなくて、神がババジに話させているんだから。

よくあるオカルト系の話とかの胡散臭さがなくて、彼の真実の人生を語っているだけなんだけど、それが面白くて楽しくて、とてもいい経験をさせてもらって、メンタルチャージ フルパワー!
見せる笑顔がかわいらしくて、ババジと新生ズッコ家3兄弟の写真撮影。 

楽しかったな~。関心しきりなんだけど、どこか笑えちゃう聖者。

こんな出会いに導いてくれた友人達に感謝。



我が家この旅のアジア最終章のシナリオは、まだまだ続くのだろうか?

さすがは、密教を含む世界の屋根ヒマラヤ。見せてくれる世界が宇宙規模に雄大だ。
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by laidbacktrip | 2010-05-24 19:41 | Comments(2)

「聖地カイラス山まで、あともう少し」

さてここは世界の屋根、ヒマラヤの麓、カトマンズ。
魔都と呼ばれる小さな首都は、飽きることなく毎日いろんな事に出くわします。

世界のどこにいても同じことだけど、自分の心の映し出す方向へ物事が見え進むのですが。
アジア最大の聖地「カイラス山」へ向けて、心の解毒、精神面も肉体面もバランスをとりながら、THE WAYへと起動修正の日々。

日々の瞑想ともっと大きなサイクルの瞑想が重なって、
とてつもない強いエネルギーにより、ゼロ地点がきた。
嫁は、最近日々の瞑想の集中力が低下しているのを感じていて、このメンタルポジションで聖地入りはどうなんやろ?なんて考えていたところへ。。。
聖地カイラス山へのメンタル チャージは、あ~この出会いかと納得なタイミング。



さっき、我が家の部屋にババジ(ヒンドゥー教遊行者、サドゥー)と友人が、突然やってきた。

インドから48時間かけてやってきたババジーが、我が家を訪ねに来てくれた。しかも2回も。

いつも音楽を聴いたり、絵を描いたり、ご飯食べてる普通の生活臭バリバリな自分達の部屋へ。

これが結構自然体で、ギャグだよ。

これはもう本当の旅が始まった。

カイラスへ行くにあたって、ミラクルな味わい深い1週間。
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by laidbacktrip | 2010-05-22 22:40 | ネパール | Comments(1)

「夢と現実の間を旅する」

我が家には、溢れんばかりの「夢」がいくつもある。

夫婦で世界を一周する事も夢だったけど、今では現実の途上。
世界というフィールドで、お互いの好きなことをクリエイションし続ける事も夢だったけど、今では現実の途上。

今日も朝から全くもって、部屋の水が出ないのは、夢でない現実。
1日に20分しか出ない貴重な水道水をタンクに溜め置きし、それで歯を磨き料理し洗濯するのも、現実。
ネパール王族や女優ご用達の最高級BARのDJブースに旦那が立ち、ネパールの物価では考えられない高価なドリンクを飲み、運転手付革シートの車で家に送ってもらうのも、現実。
帰宅後、シャワーが浴びれたなぁ~と思いながら蛇口をひねってみるも、やはり一滴も水は出ず、期待するんじゃなかったと、ベタベタのままベットに倒れるのも、現実。

それでも、まだ「夢」がたくさんある。


2007年12月、日本を経ってすぐに向かったのは、夢にまで見たチベット。
しかしその時、冬期だったため近づく事すら許されなかった聖地。
「アジア最大の聖地。カイラス山」
2008年8月、中国カシュガルの西サイドからアタックを試みるものの、オリンピックの影響でパーミットの許可どころかバスのチケットすらも買う事が許されず。。。
「カイラス山はいつでもそこにある、今ではない」と自分に言い聞かせ、パキスタンへ入国。
その後インドとネパールで1年と今に至る。
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夢と現実の間を旅する。
日々の思いと努力とタイミングと運、何よりも多くの仲間と家族の暖かい理解により、

あと少しで届きそうだ。



■1.「雪と岩の間を旅する」■

 1900(明治33)年7月4日、河口慧海(えかい)はネパール
とチベットを分ける峠の頂上に立った。岩場の雪を払って、荷
物をおろし、一息ついて南方のネパール側を眺めると、ヒマラ
ヤ山脈の白い峰々が虚空にそびえている。

 北方に目をやれば、初めて見るチベットは、山々が波を打っ
たように重なり合い、その合間を縫って雲間から幾筋かの川が
光っている。

 3年前の明治30年6月に神戸港を出発した時、チベットに
入るには三年かかるだろうと考えたことを思い出した。その計
画通り、3年後の今、自分はここにいる。腹の底から愉悦の感
情がこみ上げてくるのを感じた。

 麦の粉に雪とバターをこねただけの簡単な食事を終えると、
慧海は立ち上がり、これまでと違って雪深い北側の斜面を、一
歩一歩降りていった。慧海は、それまでの旅を、

空の屋根土をしとねの草枕雲と水との旅をするなり

 と詠んだが、それから後の旅は「空の屋根雪をしとねの岩枕」
で、「雪と岩の間を旅するやうな訳で御座いました」と『西蔵
旅行記』に書いている。

■2.「神秘の国」チベット■

 チベットは、南をヒマラヤ山脈、西をカラコルム山脈、北を
崑論山脈に囲まれた、日本の6.5倍もの面積を持つ世界最大
の高原地帯である。

 この高地にチベット民族は大乗仏教を核とする文明を築いて
きた。1642年以来、チベット仏教の活仏(かつぶつ、仏の転生
者と考えられている高僧)ダライ・ラマが代々統治してきた。

 19世紀に入るとチベットは外国に対する警戒心から国境を
閉ざし、鎖国体制をとった。実際に19世紀初頭から20世紀
初頭にかけて、西はコーカサスから東はチベットに及ぶ広大な
地域で、南下を狙う帝政ロシアと、それを封じようとする大英
帝国との間で諜報合戦が繰り広げられており、チェスに見立て
て「グレート・ゲーム」と呼ばれていた。

 慧海がチベット行きの準備として、インドの高原都市ダージ
リンで師事したインド人チベット学者サラット・チャンドラ
・ダースも、実は英国の秘密調査員であり、2度もチベットに
潜入して、地理・社会・経済・政治などの調査を行っていた。
これがチベット側に発覚し、ダースに接触したチベット人達が
死刑・投獄・財産没収などの処罰を受けている。

 こうした鎖国体制と、世界の秘境とも言うべき地理的特性が
相まって、チベットは「神秘の国」と呼ばれ、世界中の探検家、
学者の関心を引きつけていた。

 また仏教学者にとっても、チベットは「神秘の国」であった。
チベット人は7世紀には独自の文字を持ち、8世紀後半からは、
その文字を用いて仏典翻訳の大事業を推進した。その結果、チ
ベット大蔵経がまとめられたのだが、インド本国で散逸してし
まった教典も含んでおり、仏教原典を求める学者たちがその入
手のためにチベット入りを志していた。慧海もその一人だった。

■3.「一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子」■

 河口慧海、幼名・定次郎(さだじろう)は、明治維新の2年
前、慶応2(1866)年に和泉国(大阪府和泉市)堺に、樽職人の
長男として生まれた。信心深い両親のもと、幼い頃から信貴山、
高野山などの仏教聖地に親しんで育った。

 15歳の時に読んだ『釈迦一代記』で、長い修行の末に悟り
を開いた釈迦が「一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子」
と言って、衆生救済の決意を胸に山を降りる姿に激しく胸を揺
すぶられた。そして自分も出家して、衆生救済のために一生を
尽くしたい、と願うようになった。

 家業を継がせたいと願う両親に、定次郎は出家の希望を説き
続けた。明治20(1887)年9月、仏教界の人材育成を目指す哲
学館という学校が東京に開かれた。定次郎はそれに入学すべく、
ついに両親を説得して、翌年春に上京した。23歳の旅立ちで
あった。

 東京では、授業料と生活費の月4円を、朝の5時から午後2
時まで団扇(うちわ)作りをして稼ぎ、その後、一時間歩いて
哲学館に通う、という極貧の苦学生生活を送った。

 明治23(1890)年、定次郎は数え年25歳にして、東京の羅
漢時にて得度を受け、慧海の名を与えられた。

■4.「ネパール或は西蔵(チベット)に行かなくてはならぬ」■

 慧海はその後、宇治の万福寺・別峯院に2年ほど籠もって、
仏教聖典の総集と言うべき大蔵経の読誦に取り組んだ。それら
の教典を分かり易く和訳して広めたいと志したのである。

 しかし、そこで一つの問題に突き当たった。例えば『法華経』
の漢訳は3種類あるが、それぞれにかなりの相違があった。

 素人にも解り易い経文を拵(こしら)へたいと云ふ考で
漢訳を日本語訳に翻訳した所が果たしてソレが正しいもの
であるかドウか、サンスクリットの原書は一ツであります
が漢訳の経文は幾つにもなッて居りまして・・・甚だしき
は全く其意味を異にして居るのもあり・・・何れにしても
其原書に依つて見なければ此経文の孰(いず)れが真実で
孰れが偽りであるかは分からない、是は原書を得るに限る
と考へたです。(『西蔵旅行記』上巻、1-2頁、[1,p98])

 しかし、どこでサンスクリット語の原典を得るか。

 大乗教の仏典なるものは仏法の本家なる印度には跡を絶ッ
て今はネパール或いは西蔵(チベット)に存在していると
云う。其原書を得る為には是非ネパール或は西蔵に行かな
くてはならぬ。(『西蔵旅行記』上巻、2頁、[1,p100])

 ネパールでサンスクリット語の仏典を発見したのは、19世
紀前半に英国東インド会社の駐在公使として21年も駐在した
ブライアン・ホートン・ホジソンであった。ホジソンは集めた
大量の仏典をロンドン、オックスフォード、パリの図書館や研
究機関に送り、ここからサンスクリット語による大乗仏教の研
究というまったく新しい学問分野が開けていった。

 これに刺激されて、日本仏教界でも、仏典研究において西洋
諸国に遅れをとってはならないと、チベット仏教探訪の必要性
が唱えられていた。例えば、慧海の哲学館での同窓生である能
海寛は『世界に於ける仏教徒』の中で、次のように唱えていた。

 日本仏教徒の責任として、同じ大乗仏教国であるチベットを
探検し、仏典の原典や釈尊の正伝を探究するとともに、両国仏
教徒の団結を計り、閉鎖国チベットの発展を図らねばならない。
特にロシアが北から、イギリスが西から、フランスが南から、
そして支那が東から迫っていて、チベットが一大戦場になりか
ねない今日、これは一日も猶予できない、と。慧海もまさしく
同様の考えであったろう。

■5.「何ぞ旅行費なきを憂へんや」■

 明治30(1897)年6月26日、慧海は数人の知人に見送られ
て、神戸港から日本郵船株式会社の貨客船・和泉丸に乗って、
出発した。日本にいても、チベットに関する正確な情報は手に
入らない。とにかくインド辺りまで出かけてみるしかない、と
考えていた。

 旅費の調達は思うに任せなかったが、「釈尊の教えられた最
も謙遜の行乃ち頭陀乞食(ずだこつじき、食を乞いながら野宿
などして各地を巡り歩いて修行すること)を行ふて行かんには
何ぞ旅行費なきを憂へんや」という気持ちだった。そして大阪
や堺の友人・信者たちが支援してくれた資金を手に、船に乗り
込んだのだった。

 シンガポールで英国汽船に乗り換え、7月25日にカルカッ
タ港に着いた。この年、インドは大飢饉に襲われ、餓死者10
数万人を出し、さらにペストが大流行していた。カルカッタに
本部を置く仏教徒の組織・大菩薩会の救援要請に応えて、日本
の各宗派が義捐金を送っていた。その縁で、慧海は大菩薩会に
宿を提供して貰い、さらにチベット語を習いたい、との希望を
聞いて、ネパール国境沿いの高原都市ダージリンに住むチベッ
ト学者サラット・チャンドラ・ダース(前述)への紹介状を書
いてくれた。

 ダージリンに慧海は1年5カ月間滞在し、チベット語を学び
ながら、情報収集に努めた。ダージリンから北東に向かえば、
すぐにチベットとの国境を越えて、首都ラッサに通ずる街道が
延びていたが、いくつもの関所でチベット兵が厳しい監視を行っ
ていた。

 慧海は、まずは大きく西に迂回して、ネパールに入り、そこ
からチベットへの道を探ることとした。1899(明治32)年1月
5日、ダージリンを出発した。

■6.非常識な大回り■

 慧海はネパールの首都カトマンドゥの近郊に1カ月余り滞在
し、各地から集まる巡礼乞食からチベットに向かう道の情報を
集めた。カトマンドゥから北のヒマラヤ山脈を超えて直接ラッ
サに向かう間道はいろいろあるが、どれも12回も関所を通ら
ねばならない。関所で尋問を受けたら、外国人でないかと疑わ
れる危険が極めて高い。

 しかし、カトマンドゥからさらに北西に200キロほども迂
回して、そこからチベットに入り、さらに200キロほど北西
のマーナサロワール湖を回ってから、1000キロ以上も東の
ラサに向かう、というコースをとれば、関所を通らずに済む、
という結論を得た。さすがにこんな非常識な大回りはチベット
側でも想定していなかったのであろう。

 慧海はカトマンドゥから200キロほど北西のチベット国境
近くの集落ツァーランに10カ月も留まって、土地の学僧につ
いてチベット仏教を学びながら、さらにチベットへの潜入路の
情報収集に努めた。じっくり時間をかけて慎重に情報を集めた
上で断行するのが、慧海の身上であった。

 ツァーラン滞在中にも、慧海は15人ほどに酒を止めさせ、
30人ほどに煙草の葉を噛んで辛い汁を飲む習慣を改めさせた。
どの地にあっても、人々をよい方向に導く事が、菩薩道を行く
者の任務と心得ていたのである。

 1900(明治33)年の新年を、慧海は例年のように天皇・皇后
・皇太子の万歳を祝する読経式で迎えた。3月10日、百人以
上の村人に見送られてツァーランを出発。

 そして、冒頭に述べたように、7月4日、チベットに入った。
日本を出てからすでに3年の月日が流れていた。

■7.「セライアムチ(セラの医師)」■

 慧海がチベットの首都ラッサに着いたのは、それから8カ月
も後の翌1901(明治34)年3月21日であった。それからまも
なく、中国人との触れ込みで、ラッサ北方の山裾にあるセラ寺
に入学を許された。この寺はラッサ3大寺の一つと称せられ、
当時7千人以上の僧侶が居住していた。

 ある日、散歩に出た慧海は、近くの僧坊の小僧が喧嘩で肩の
骨を外して泣き叫んでいるのに出会った。多少、接骨の心得の
ある慧海が直してやると、これが瞬く間に大評判となり、病人
が次々に押しかけてきた。仕方なく、慧海が中国商人の店から
漢方薬を買ってきて、病人たちに与えると、薬など飲んだこと
のないチベット人には見事に効いた。貧乏人からは薬代もとら
ず、活きた薬師如来様かと崇められた慧海は「セライアムチ
(セラの医師)」と呼ばれるようになった。

 この評判が法王ダライ・ラマの上聞に達して、目通りが叶っ
た。法王は「長くセラに留まって僧侶及び俗人の病気を治すよ
うに」と述べた。これを機会に、慧海はラッサの多くの上流人
士と交わるようになった。

 しかし、ダージリンで慧海に会ったことのある人物が、セラ
イアムチは日本から来た秘密探偵だと言い触らした。危険を感
じた慧海はすぐにチベットを脱出する覚悟を固めた。まず、ダ
ライ・ラマ宛に「世界に大乗仏教を護持する2大国、チベット
と日本が協力して、他の国々に正法を広め、衆生を涅槃に導く
大方便を法王から授けて下さる事を請うために、自分はチベッ
トに来た」との上書を書き上げた。

 ラッサで集めた書籍を荷造りしてカルカッタに送る手はずを
整えた。さらにセラ寺での先生や保証人などお世話になった人
々に金品を贈って恩を謝した。

 慧海がラッサから姿を消したのは、1902(明治35)年5月の
事であった。400キロほど南西に一直線に下り、インドのダ
ージリンに逃げ延びた。途中、5つの関所があったが、セライ
アムチの名声で押し通した。

■8.恩人救出のためのネパール入り■

 慧海は逃避行の途中でマラリアに罹り、ダージリンでしばら
く静養を続けた。10月になって久しぶりにチベットからの一
行がダージリンに到着したが、ラッサではセラ寺の教師や保証
人など、慧海と接触のあった人々が逮捕されるとの報をもたら
した。

 世話になった人々を罪に落としながら、自分一人逃げおおせ
るのは、日本人として耐え難いことである。慧海はその年のう
ちに、カルカッタに戻り、そこでつてを辿ってネパール国王へ
の紹介状を得ると、再びネパール入りした。

 ネパールはアジアの新興国家日本に興味を持ち、初の海外留
学生を日本に送り込んでいた。国王は慧海に会ってくれ、その
熱情にほだされて、ダライ・ラマへの上書の取り次を約束して
くれた。この上書は、恩人たちの釈放に一役買うことになる。

 1903年4月、慧海はボンベイから日本に向かう船に乗り込ん
だ。1カ月ほどの船旅であるが、故国が近づくにつれて、彼は
このまま帰るのが恥ずかしくなった。6年近くもインド、ネパ
ール、チベットをさまよったが、自分はもとの凡夫のままであ
る。しかし、一つの歌ができて、それが慧海の気持ちを軽くし
てくれた。

日の本に匂う旭日はヒマラヤの峰を照らせる光なりけり

 仏日の光輝は至らぬ隈なく宇宙に遍満して居りますから
何れの世界に行ッても修業の出来ぬ道場はない、日本も我
が修行の道場であると観ずれば別段苦しむにも及ばない。
(文責:伊勢雅臣)
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by laidbacktrip | 2010-05-17 13:44 | ネパール | Comments(3)

人民戦争の最中、ズッコ家メイツ@ネパール

今回の日本からやってくるズッコ家WWP(ワールド ワイド パシリ)は、c0158636_22183471.jpg
過去最強の名古屋、大阪から4名様。
WWPとは、ワールドワイドパシリの略。国を超えてズッコ家に物資を届ける任務、というのを口実に、バックパッカー気分を短期間で濃縮に全力に楽しむ業務。


我が家を含めて6名でバックパック背負って、観光客エリアを安宿探しながら路頭に迷うなんて、まさにカモがネギ背負って日本から出汁まで持ってやってきました状態。
4名がいろんな妄想に暴走を重ねてやってくる。旅慣れしている人もそうでない人もいる。

ゴールデンウイークという名ばかりの短い滞在期間を有効にそして最大に楽しんでもらいたいと、我が家カトマンズ在住6ヶ月の奇薄なデーターを元に、今までのWWPでは考えられないほどの計画を立て、下見に下見を重ね、パーティーのフライヤーも作り、カトマンズの友人達にも告知し、ホテルも予約し、WWP史上完璧なズッコ家ツアーズを描いていた。
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しかしだが。。。
当日が近づくにつれ、マオイスト政権による無期限ストライキの告知。
ネパール人に聞けば、町は平和では無くなると言う。。。

うんざりするほど社会の機能がすべて止まるのは最大3日まで経験したことがあるが、今回は無期限。。。どうなるのか予測が付かない大規模のストライキ。
お国の政権交代ごときで国民生活は大荒れ。そりゃいつまでたっても最貧国だよ此処は。
基礎が間違っているから立て直しようがないね。
c0158636_1193941.jpgエンジンの搭載(飛行機以外)ものはすべて走行禁止、もし走ってマオイストにでも見つかれば殺されるだろう。もともと歩くスピードが似合う国だけど。
大型ショッピングモールもローカル商店もすべてシャッターが下りる。学校も会社も何も無い。なんなら水道水も電気もろくに無い。
まさに
「ナッシング トゥ ドゥ~  カトマンドゥ~♪」


ズッコ家メイツがネパールに到着した翌日に、予告どおり無期限ストライキ勃発。。。c0158636_22205049.jpg

計画していたパーティーもナガルコットもポカラも中止。
実際、バックパッカー旅を楽しむなら計画なんてぶっ壊されて良かったのかも。


滞在期間はストライキにより、いつもの混沌とした町は、排気ガスが無くなり空気が綺麗に、学校も会社も無期限休暇。車の無い公道では子供も大人もクリケットやサッカー、自転車に乗る練習をしていて、なんとも情勢とは裏腹に平和な時間が流れている。警察官もダレている。
ストライキも5日目頃には、国民が燻りだし、反マオイストとマオイストの銃撃戦などと、人民戦争。。。

安心大国日本では味わえない、ピリついた緊張感の社会情勢を垣間みることができた稀なズッコ家ツアーズも、社会の機能が停止する前日、聖地のボダナートで全員ブレッシングを受けたおかげか、何事もなく無事にみんなが帰国することができた。本当にホッとした。
c0158636_22241575.jpg
そして、みんなが去った後、嫁は38度の高熱で3日間寝込んだ...

次回は、どんな情勢の国でズッコ家ツアーズしようか~?


今回のWWPは、日本からハイテクな物資と日本食材が無事に届きました。
どうもありがとうございます。
そして帰国の際、嫁の作品を日本へ届けてもらうミッションも無事で何より、ありがとう!

c0158636_22212054.jpg2009年7月インド、バラナシの皆既日食を皮切りに絵を描くようになり、ネパールでボランティアしている際ひょんなことからカトマンズ元市長と宝石工場のネパール人社長に絵画を認めていただき、ジュエリーのデザインをする展開に。皆様宜しくお願いします。


嫁の作品ジュエリーサイト→http://keyjet.exblog.jp/
そのきっかけとなった絵画を愛知県で展示する(今秋~来年)ために数点WWPで日本へ。
その翌日、香港から絵画のオファー受けました。
日本より先に、海外で絵画展示デビュー予定。
皆様のおかげでズッコ家の旅路が成り立っているんだと日々感謝。
有難いです。
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by laidbacktrip | 2010-05-10 22:30 | ネパール | Comments(0)