カテゴリ:ネパール( 45 )

チベットからロシアへ飛ぶ!

嫁の絵画が、ロシアのサイトで紹介されました。うれしいかぎり!!!

しかし、まったくロシア語が読めません。。。
何て書いてあるの??
誰か~教えて~!


以下、そのロシアのサイト

http://kailash.ru/738.html
http://kailash.ru/288.html

こうして西チベットで描いた絵たちが、どんどん自分の知らない土地へと旅をする。

有難いです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

友人からサイトの内容、ロシア語~英語の翻訳が届きました。

It says:

"I met with a very openminded joyful Japanese girl. She is an artist - Keiko Ando Muramatsu. We have met in trip to the sacred mountain Kailash.
Her work is admired. Light, bright and deep. She draws a sensation, not what they see eyes".
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by laidbacktrip | 2010-07-01 14:40 | ネパール

西チベット。アジア最大聖地巡礼カイラス。

何故、人はここへ来るのだろう。

この旅2年半のアジア集大成にふさわしい、憧れの聖地、西チベット、カイラス山。
世界の屋根ヒマラヤの北部に位置し、厳しい自然環境と複雑な政治的背景を背負うことに寄って、秘境中の秘境と言われている度を増し、人々をひきつけ続けているが近づきがたい乾いた大地と山。

カイラス山は、
仏教徒にとって、ブッタ。
ヒンドゥー教徒にとっては、シヴァ神の住み処。
立体曼荼羅と言われている山。

この標高6千ウンチャカmt(忘れた)の聖なるカイラス山の回りは52kmの見事な巡礼路があった。
山の南側の村を拠点にスタートし、東西北にゴンパ(寺院)を擁し、ミラレパ、グルリンポチェ、ゴツァンパなどの聖者が瞑想したと伝えられる洞窟の数々。
河口慧海が心臓破りと称した標高5700mtのドルマ・ラ(峠)超えなどなど、キリがないほどのアトラクション揃いの巡礼路は一周52km。
低地から来た外国人は2~3日間かけて周る。チベット人は1日で周る。

そんな52kmの巡礼路をチベット全土中、アジア、はたまた世界中から仏教徒、ヒンドゥー教徒、ボン教徒、聖地マニア、トラベラー、登山家、写真家、宗教研究家、物好きまで、あらゆる人間が集い、歩く。馬に乗る人もいれば、ヤク(山牛)やポーターに荷物を持ってもらって手ぶらで歩く人もいれば、五体投地で身を伏せながら全身をカイラス山の巡礼路に預けて周る人もいる。ただただ各々が山の周りをクルクル回る。そんな場所。

今日、カイラス山を含む西チベットの個人旅行は許されていない場所となっている。
北京オリンピック以前は、チベット人に顔の近い日本人は変装し、ヒッチハイクや闇バス、巡礼トラックなどで、西チベットに潜入し旅していたが、今現在は(昔も)入境許可証(パーミット)が必要なため、ネパールサイドからカイラス山を目指すには旅行会社を通し、パーミット付のツアーにてのみ旅行可能という状況。
実際3週間西チベットにいたが、現地人盛りだくさん乗せた巡礼トラックも1週間に1台見た程度、ヒッチハイカーも見かけなかった。パーミット無しのヒッチハイク旅行者を乗せたドライバー(チベット人)は見つかり次第殺害されるという噂も。
西チベットは中国政府の厳しく管理下の魅惑の地。

この旅2年半フラフラと個人旅行している我が家、すべてお膳立てされた過保護ツアー(3食+おやつ+料理人付、ホテルは最高級、ヤクやポーター、医者までつけてのフルサービス。日程は限りなく短く、いっきに標高5000mt近くまで移動する、高度順応どころか。。。肝心なカイラス山周辺でも自由はきかない20名~80名単位のツアー、16日間、20万~60万円程度)にはお世話になりたくない。

コンビニエンスな生活をしている環境から西チベット入りし巡礼だけに集中するなら、きっとこんな高額ツアーでも良いのだろうが、我が家は河口慧海もミラレパも自分の足で旅した地には、なるべく現地を舐めるように出来るだけインデペンデントで安く西チベットを旅したかった。しかしこの状況下でヒッチハイクをするほど無茶も時間も根性もない。

社会から踏み外さずに良い事してます的な日本語ボランティア教師をしながら、カトマンズ在住7ヶ月間、虎視眈々とその時を狙っていた。
そして偶然にも自分達の希望に沿ったプランが見つかった。
ツアーとして予約するのは、移動手段ジープ+ガイド&ドライバー、西チベット間パーミットのみ。予算を削れる宿と食事は現地で探し各自払い、いつものバックパッカー気分。しかも今回初の試みのツアーでカイラス山コルラ(巡礼周る事)を3回可能な日程。
信頼おけるドイツ人仏教徒が10年続けている旅行会社で支払いはユーロ。
タイミングよろし。

ダイヤモックス(高山病予防薬)や胃腸薬(酸素欠乏による下痢予防)のケミカル漬けでなく、素の本来の自分自身でカイラス山と向き合いたかったので、薬物投入することなく途中標高3750mt「Nyalam(ニャラム」という町で高度順応4日間。
カイラス山、ティルタプリ、マナサロワールの3大聖地10日間という合計3週間のゆったりとしたフレキシブルなプログラム。持参のテントでの宿泊もOK。

西チベット価格相場。宿:1ベット30元前後~、食事1食10元程度~。麺6元~。チャーハン10元~。バター茶1.8Lポット7~12元。シャワー10元~20元。宿や寺院でお湯はフリーでもらえる。インスタントのスープや麺、カロリーバーやビスケットの行動食は、カトマンズで購入し現場に持ち込んだ。

メンバーは国籍バラバラな7名、ジープ2台。チベット人のドライバー。
サッカーとビールに世が明け暮れている中、カイラス山のみを完全にフォーカスし、体と心の調節、自分の内側に向かい明け暮れるメンバー達。
チベット仏教徒ドイツ人男性47歳、仏教に見せられ始めたオージー男性30歳、3人の子持ちカナダ人母さん35歳、チベット仏教の開祖の一人グルリンポチェマニアのロシア人女性38歳、ダライラマの写真を撮り続けて早10年のニューヨーカー写真家50歳男性、そしてズッコ家日本人夫婦。インターナショナルな面子。


~~~~~~~~~~~~~~

1日目:Kathmandu~Nyalam 
国境まではバス、中国サイドはジープで移動、合計5時間ほど。
ネパール~中国国境超え、激ユル大国からパッキパキの国へ。もちろんダライラマの写真など持っていれば問答無用即没収。

2日目:Nyalam restday Milarepa cave.
メンバーの中で漢字が理解できる唯一のアジア人として、宿や食事のガイド通訳役として、ドローカル食堂を筆談で渡り西洋人の中で珍しくヒーロー的ポジション。

3日目:Nyalam Trekking to Phukaro cave.
先に駒を進めたくてウズウズするが、この先の高地のための高度順応とあちこちトレッキングの日々+チベット語の単語勉強(ガイドブック旅行人参照)。10元で浴淋(シャワー)浴び放題、カトマンズよりも快適な湯量と水質。

4日目:Nyalam Trekking to Tara tso.
高度順応地3日目だが頭痛に悩まされているメンバーもいた。我が家は相変わらず、餃子、包子、麺、番加、麻婆豆腐、中華料理食いまくりで全く高山病の気配なし。

5日目:Nyalam~Saga.
およそ6時間ドライブ。後部座席でウトウトしながらヒマラヤ山脈の美しさに感嘆。なんやかんや言っても移動手段が確保してあるのは楽チン。チベット人ドライバーはランチ後の眠気防止に「ナタ(チベタンナチュラルコカイン)を吸引し、トヨタ、ランドクルーザーはパリダカの様に砂道を飛ばす。

6日目:Saga~Paryang.
地平線とヒマラヤ山脈の間をひたすら走る。野性のガゼル、放牧の羊、遊牧民のテントなどが雄大な景色を演出する。北京タイムなので西チベットでは22時に日が暮れる。厳しい自然環境の限られた食材で作る現地の食の幅が狭くなってきた。
チベタン食堂やテントで、チャーハンやシャムデ(チベット料理、ジャガイモとヤク肉のポトフon the rice)空気も旨いし飯も旨い10元。

7日目:Paryang~Darchen.
マユム・ラ(峠)を超えた辺り、カイラス山が遠くに望める。その強烈な存在感に圧巻。カイラス山コルラの拠点の村Darchen。この地でも20元でシャワー浴び放題。カトマンズよりまともにお湯が浴びられ、太陽パネル自家発電を各家庭持っているので、夜は必ず電気がある。デジカメの充電も問題なかったし、中華料理屋も雑貨屋も揃っているが銀行やATM、郵便局は無い。酸素が希薄なだけで思ったより快適に過ごせる村。
カイラス麓のコルラ拠点の村の道端で、汚い服を身に纏うが目はとても優しく力強いチベット人のお爺さんに、旦那は握手された。ようこそカイラスへ、と言っている様だった。

8日目~10日目:Mt.kailash Kora①。
そんなわけで始まった1週目コルラ。
期待や不安を抱いて早朝5時半起床、日の出7時と共にチベット犬の遠吠え、小雪の中Darchenを出発。巡礼トレッキングスタート。
どんよりと空が重い。右肩側に位置するはずのカイラス山も姿見せず。
最初の1時間程度で到着するポイントのチベット人もスルーする様な所で、いきなり五体投地とタルチョ(チベット仏教徒聖なる五色旗)を供える西洋人。西洋でもダライラマの影響か仏教への献身の心を知り、驚く我が家。ん~濃い1周になりそうだ。

そして調度、前日宿泊していた宿の隣の部屋のラマ(僧侶)や食堂で顔見知りになったチベット人兄ちゃん達がいたので、ヒョイヒョイとついて行くと、そこは鳥葬場。
ちょっとした小高い岩丘の上、20人位チベット人達がいて、数十kgのチベット人主食ツァンパ(麦焦がし粉)、バター、ビスケット飴などが堆く山積みに運び込まれ、ヤク(山牛)の糞で焚き火がゴウゴウと焚かれ、ラマ(僧侶)がお経を唱え始めていた。

ふと後ろを振り返ると。。。ある一人の男が斧で肉を刻んでいる。
ヤク(山牛)か何か生贄なのかと思って見るが。。。何かが変だ。
顔が布で巻かれているが、どう見ても人間なのだ。。。

巡礼初日、歩き始めて1時間にしてカイラス山を見る前に、鳥葬場の現場の儀式に立ち会ってしまったのだ。
小雪と冷たい風の吹き荒ぶ中、人間の遺体を斧と小刀で鳥が食べやすい様に刻んでいる最中だった。
本で読んだことがあったが、現場は初めてだ。
首を斧でぶった切り、頭蓋骨から頭皮を小刀で削ぎ剥ぎ、鳩尾から小刀を入れ肋骨を左右に割る。そして内臓を取り出し細かく刻む。すべては鳥のため。
岩の上に広げられた肉片は、この夏に鉄板の上で焼かれる食卓の肉となんら変わらない見た目だった。

死に対する悲しみは感じられず、外国人(我が家とロシア人の3名のみ)が突然見学していても、怪訝な表情なく、むしろ巡礼中に立ち寄ってくれ、最後の別れに良くぞ来てくれたと大きな笑顔の人々。何の前触れも無く太ったチベット人のおばさんから嫁は力強い抱擁を受けた。きっとさっき見た肉片は、この人の旦那様だろう。生きる事の強さを確認する様な強い抱擁に、涙が止まらなかった。


雲の中のカイラス山を右手に、強風の中歩き続ける。まだ午前10時。
幸い追い風なので、歩は進むのだが、冷たい風に体温は奪われ、乾燥した希薄な空気の標高5000mt前後。1周コルラ3日間の内、割と楽だと言われる初日のルートが辛く感じる。
しかしこの強風が昼過ぎに上空の重い雲を追い払ってくれて、歩き続けて9時間後のカイラス山北壁に到着したときには、完璧な青空に聳えるカイラス山を拝む事が出来た。

自然の偉大な芸術を前にしてもなお、人々はそれを表現しようと努力するが、宇宙を映し出す鏡の様な不動な存在に対し、神や自然を恐れ拝めて人々は謙虚になるざる終えない。精神の集中力が、ただの山の背後に信仰の偉大な力を作り出しているようだった。

この冷たい風の吹き荒ぶ中テントを建てようか考えていたが、やはり此処北壁に到着したことの感謝を伝えようとデラプク・ゴンパ(寺院)へ。するとラマ(僧侶)がベットを2つ空けてくれた。ドラマチックな巡礼初夜は、窓からカイラス山が望め、仏像達が見守る小さな僧房でラマ達と就寝。

巡礼トレッキング2日目。
昨日までそこにあったカイラス山は、完全にこっち側の物質世界だと思っていたのだが、朝焼けの柔らかい光と凛と張り詰めた冷たい空気の中、まるで日時計のように刻々と朝を迎えるのを、カイラス北壁はピンク色やオレンジ色と変化して色が広がっていく。
宇宙を移す偉大な鏡。風の音の奥の静けさ、精神が剥き出しになる。
大自然の創造物の前では、人々は謙虚になる以外の道はないのだろう。
そしてそのただの道は巡礼路となり、ただただ人は歩くのみ。
通学路も通勤路も巡礼路。


さて、ここからが山場。標高5700mtのドルマ・ラ(峠)を越える。
多くのツアー客の荷物を運ぶヤク(山牛)、太り過ぎたインド人を乗せて歩く馬の行列に混ざり、我が家はテントと食材(3日間分)を背負い自力で越える。
今までの経験の中で、一番標高の高い場所へ来たが意外と楽だった。
峠には無数のタルチョ(チベット仏教徒五色旗)。我が家も2008年インド、ラジャスタン州で出会った九州出身の旅人に頂いてからこの旅でず~っと持っていた小さなタルチョをこの峠に託して来た。

2日目の夜は、最後の東側の寺院(名前忘れた)に宿泊するのが一般的だが、我が家はテント泊。このカイラス山の麓で気軽に自由にテント泊なんて夢のようだが、当たり前のように過ぎ去った。
野生の野ウサギやマーモット(多分)も生息していた。
カイラス源流水を沸かした味噌汁やコーヒーは格別な美味しさだった。
朝起きたら、雪がうっすら積もっていた。

11日目~12日目:Mt.Kailash Kora② 
1周目に重い荷物を背負ったせいか、足の裏に巨大なマメが出来てしまった旦那、2周目は余儀なく断念。
嫁は単独で2周目に挑戦し、寺院に宿泊し食材を背負い1泊2日で1周コルラしてきた。
コルラ拠点の村に3日後に現れると思っていた嫁が、2日目の夕暮れ時に村に帰って来た時には吃驚した。回数を重ねてコルラするとマインドがクリアになっていくんだろう、ゆるされるなら何度も周ってみたい。
我が家二人とも無事に巡礼コルラすることが出来ました。
応援してくださった方々どうもありがとうございました。

13日目~14日目:Thirtahpury.
正直言って、カイラス山よりも聖地パワースポットを感じた。
ほとんどの人が日帰りのため念が無いのか、温泉が湧き続けるせいか、大地のエネルギーが強い。水晶と人骨散らばる山と洞窟、地平線と温泉は、死と生の大地。
行ってよかったと強く思った不思議な場所。商店も食堂も無い、宿は一件のみ(1ベット30元、要交渉)。温泉は飲用(アルカリ性)、石灰は頭髪用にとチベット人達はシコタマ持って帰っていた。

15日目~18日目:Lake Manasarovar Kora. 
4日間かけて湖の外周88km(100kmという説も)を歩いて巡礼コルラ。
そんなことしている人なんて一人も見かけなかった、インド人ツアー客などバスやジープでグルっとドーン、バッシャーン。氷水のようにめちゃくちゃ冷たい湖水に浸かり浄化するインド人達、旦那もトライ。星がすべて湖に沈み、太陽がそこから昇る湖は、聖なる水を従えていた。

足場の悪い沼地、1日目ハードな歩きのためメンバー3名脱落。
我が家含む4名個々歩く。真っ青な聖なる湖面と対話のみ。

我が家3日目に食料が底をつき始める。。。またもやザンスカールの時のようにビスケット1箱で1日重い荷物を背負い歩き続けなくてはいけなくなるのかと。。。
途中の寺院でインド人ツアー客に助けられ、豆カレーやプリーなど鱈腹ご馳走になり巡礼が続けられたので、「ありがとう」と言うが、これは俺がしたのではない、神(シヴァ)がしたのだ、ありがとうはいらない、と。はぁぁ~さすが、オ~ム ナマシヴァヤ~。

最終日に宿泊したゴスル・ゴンパ(寺院)は最高だった。
小高い山に位置する寺院の宿坊の窓からは、一面に広がるマナサロワール湖。
ツアー客ゼロ、なぜなら5つしかベッドが無いから、しかもラマ(僧侶)も2名のみ。
雑誌クレアとかに掲載されそうな景色は、5星級ラグジュアリ寺院。
でもトイレは無いので、そこら辺で。

4日目の最終日、脱落したニューヨーカー写真家がゆで卵などを持って道中に向かえに来てくれた。ガイドもポーターも携帯電話も無い状態で、空腹テレパシーが伝わったのかな?
人々に支えられて、無事に巡礼コルラ1周することができた、有難かった。

このマナサロワール湖コルラ拠点のチュ・ゴンパ麓の村には、温泉が湧き。公衆浴場あり。30元(要交渉)各個室に五右衛門風呂が設置されている、湯はかけ流し。コルラ後の全裸温泉最高!標高4000mtくらいなので長風呂注意。

19日目:Trogba.
帰り道、1日12時間ドライブ。毛沢東主義による中国文化革命の傷跡生生しいゴンパ(寺院)一見の価値あり。
無数の中国人とチベット人が舗装道路建設のため、手作業で働いていた。約3週間ぶりに通る道がもう違っていて、あと5年もしないうちに、ネパール~カイラス間はすべて舗装道路になり観光バスが行き来し、さらに俗化するのだろうか。

20日目:Trogba~Nyalam.
標高がドンドン下がり、生活が便利に、食の選択幅が広がり、物が増えて、人口が増えて行くのがわかる。

21日目:Nyalam~Kathmandu.
管理された国から管理のない自由な国ネパールへ。警察の表情も緩いし、無駄に人が日向でぼ~っとしている。激ユル先進国だわ~。
国境沿いの村はシェルパ族の住むチベット仏教信仰地。同じチベット仏教なのに国が違うと印象が違う。我が家は国境から4kmの「タトパニ」という温泉地に1泊し、公衆浴場(個室:外国人150RS、ネパリ100RS、野外打たせ湯:外国人20RS、ネパリ10RS)
フニャフニャでカトマンズへ無事帰還。
(国境~カトマンズ:エクスプレスバス1日1本、300RS・4h)

この旅2年半にわたるアジア最終章に相応しく、素晴らしい西チベットの旅だった。
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by laidbacktrip | 2010-06-25 13:19 | ネパール

「聖地カイラス山へ」

とうとうアジア最大の聖地カイラス山へ行けそうです。
実は、出発前夜の10時まで、行けるかどうかわからずギリギリでした。

明日からチベット入り。さっき決定したので実感がまだありませんが、

いよいよ、カイラスが近づいてきた様です。長かったぁ~。


「みまさまが平和と調和に満ち溢れた世界でありますように」と、3週間行ってきます。

その間は連絡が取れませんのでご了承ください。

それでは、行ってきま~す。
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by laidbacktrip | 2010-06-01 01:56 | ネパール

「ブッタ生誕祭」

多民族国家のネパールは、祭りがやたら多く、聞くところによると正月は9回あるという。
(写真右:ボダナートまでの道、遠くに仏教の旗が掲げてあるのが見える)c0158636_155940100.jpg

先週は、パタンで「マッチェンドラナート祭」
雨の恵みを与えてくれた神に感謝し山車巡業を3日間かけて行う。古都の狭い道を高々した柱の山車が人力で動くのだが、日本の祭りでいうならだんじり祭りの激ユル版。
これが非常にネパールらしく、肝心の高い高い柱が斜め(笑)。。。ただでさえ山車の車幅ギリな道のに。。。バランス取れないし、建物に当たる。。。そりゃ歩いて15分の距離を3日間かけるわけだ。
山車がグワァ~っと動いて人々もウワァ~っとなる祭り(笑
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ネパール暦バイサーク月(4~5月)の満月に当たる今日は、ネパールで生まれたお釈迦様の誕生日。朝から近所の爆音バジャン(宗教歌)で目が覚める。
雨が降ったり止んだりするこの時期は、空気が浄化されて気持ち良い。
聖地「ボダナート」で多くの巡礼者とともに、仏塔の周りをマニ車回しながらコルラする。
年寄りも若者のみんな同じ方向に歩く。1日に108回コルラする人は、夕方ごろには早足になっていたり。c0158636_163098.jpg
ヨガ友のドイツ人、1年半前にインドで出会った旅友、チベット仏教研究者、元仏像彫り師などなど、ネパールの大切な祭りの聖地でちゃんと出会えて嬉しい再会。
朝起きてから、ず~~っと友人コネクションを渡り歩き、談話する。
出会う旧友も新しい友人もみんな、本当に良い笑顔。
国籍超えて平和を分かち合い、願う。


今日も素晴らしく平和で穏やかで楽しい1日だった。そんな日々に感謝。
さすが寺院や祠に囲まれ、日々の祈りと欲望に渦巻くカオス。
最近、出会う人々の人生がやたらと心に沁みいる毎日。
味わい深い毎日は、時間がとても早く過ぎ去る。
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旅感が出てきた。

カイラス山への巡礼が無事でありますようにと合唱。

すっかり日が落ちて、バスが無くなった20時半、白く輝く満月がニッコリ微笑んでくれた。
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by laidbacktrip | 2010-05-28 16:13 | ネパール

空耳アワー

友人がくれた曲なんですが、
「EGO-WRAPPIN`」の「満ち汐のロマンス」っていうアルバム内に、
「サイコアナルシス」っていう曲があって、
その曲の頭出しのところで、ボーカルが叫ぶんですが、

それが、


「シヴァァァァァ!!!!!!」としか聞こえません。。。。 
 

これはヒンドゥー病でしょうか? 笑
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by laidbacktrip | 2010-05-25 02:35 | ネパール

「聖地カイラス山まで、あともう少し」

さてここは世界の屋根、ヒマラヤの麓、カトマンズ。
魔都と呼ばれる小さな首都は、飽きることなく毎日いろんな事に出くわします。

世界のどこにいても同じことだけど、自分の心の映し出す方向へ物事が見え進むのですが。
アジア最大の聖地「カイラス山」へ向けて、心の解毒、精神面も肉体面もバランスをとりながら、THE WAYへと起動修正の日々。

日々の瞑想ともっと大きなサイクルの瞑想が重なって、
とてつもない強いエネルギーにより、ゼロ地点がきた。
嫁は、最近日々の瞑想の集中力が低下しているのを感じていて、このメンタルポジションで聖地入りはどうなんやろ?なんて考えていたところへ。。。
聖地カイラス山へのメンタル チャージは、あ~この出会いかと納得なタイミング。



さっき、我が家の部屋にババジ(ヒンドゥー教遊行者、サドゥー)と友人が、突然やってきた。

インドから48時間かけてやってきたババジーが、我が家を訪ねに来てくれた。しかも2回も。

いつも音楽を聴いたり、絵を描いたり、ご飯食べてる普通の生活臭バリバリな自分達の部屋へ。

これが結構自然体で、ギャグだよ。

これはもう本当の旅が始まった。

カイラスへ行くにあたって、ミラクルな味わい深い1週間。
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by laidbacktrip | 2010-05-22 22:40 | ネパール

「夢と現実の間を旅する」

我が家には、溢れんばかりの「夢」がいくつもある。

夫婦で世界を一周する事も夢だったけど、今では現実の途上。
世界というフィールドで、お互いの好きなことをクリエイションし続ける事も夢だったけど、今では現実の途上。

今日も朝から全くもって、部屋の水が出ないのは、夢でない現実。
1日に20分しか出ない貴重な水道水をタンクに溜め置きし、それで歯を磨き料理し洗濯するのも、現実。
ネパール王族や女優ご用達の最高級BARのDJブースに旦那が立ち、ネパールの物価では考えられない高価なドリンクを飲み、運転手付革シートの車で家に送ってもらうのも、現実。
帰宅後、シャワーが浴びれたなぁ~と思いながら蛇口をひねってみるも、やはり一滴も水は出ず、期待するんじゃなかったと、ベタベタのままベットに倒れるのも、現実。

それでも、まだ「夢」がたくさんある。


2007年12月、日本を経ってすぐに向かったのは、夢にまで見たチベット。
しかしその時、冬期だったため近づく事すら許されなかった聖地。
「アジア最大の聖地。カイラス山」
2008年8月、中国カシュガルの西サイドからアタックを試みるものの、オリンピックの影響でパーミットの許可どころかバスのチケットすらも買う事が許されず。。。
「カイラス山はいつでもそこにある、今ではない」と自分に言い聞かせ、パキスタンへ入国。
その後インドとネパールで1年と今に至る。
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夢と現実の間を旅する。
日々の思いと努力とタイミングと運、何よりも多くの仲間と家族の暖かい理解により、

あと少しで届きそうだ。



■1.「雪と岩の間を旅する」■

 1900(明治33)年7月4日、河口慧海(えかい)はネパール
とチベットを分ける峠の頂上に立った。岩場の雪を払って、荷
物をおろし、一息ついて南方のネパール側を眺めると、ヒマラ
ヤ山脈の白い峰々が虚空にそびえている。

 北方に目をやれば、初めて見るチベットは、山々が波を打っ
たように重なり合い、その合間を縫って雲間から幾筋かの川が
光っている。

 3年前の明治30年6月に神戸港を出発した時、チベットに
入るには三年かかるだろうと考えたことを思い出した。その計
画通り、3年後の今、自分はここにいる。腹の底から愉悦の感
情がこみ上げてくるのを感じた。

 麦の粉に雪とバターをこねただけの簡単な食事を終えると、
慧海は立ち上がり、これまでと違って雪深い北側の斜面を、一
歩一歩降りていった。慧海は、それまでの旅を、

空の屋根土をしとねの草枕雲と水との旅をするなり

 と詠んだが、それから後の旅は「空の屋根雪をしとねの岩枕」
で、「雪と岩の間を旅するやうな訳で御座いました」と『西蔵
旅行記』に書いている。

■2.「神秘の国」チベット■

 チベットは、南をヒマラヤ山脈、西をカラコルム山脈、北を
崑論山脈に囲まれた、日本の6.5倍もの面積を持つ世界最大
の高原地帯である。

 この高地にチベット民族は大乗仏教を核とする文明を築いて
きた。1642年以来、チベット仏教の活仏(かつぶつ、仏の転生
者と考えられている高僧)ダライ・ラマが代々統治してきた。

 19世紀に入るとチベットは外国に対する警戒心から国境を
閉ざし、鎖国体制をとった。実際に19世紀初頭から20世紀
初頭にかけて、西はコーカサスから東はチベットに及ぶ広大な
地域で、南下を狙う帝政ロシアと、それを封じようとする大英
帝国との間で諜報合戦が繰り広げられており、チェスに見立て
て「グレート・ゲーム」と呼ばれていた。

 慧海がチベット行きの準備として、インドの高原都市ダージ
リンで師事したインド人チベット学者サラット・チャンドラ
・ダースも、実は英国の秘密調査員であり、2度もチベットに
潜入して、地理・社会・経済・政治などの調査を行っていた。
これがチベット側に発覚し、ダースに接触したチベット人達が
死刑・投獄・財産没収などの処罰を受けている。

 こうした鎖国体制と、世界の秘境とも言うべき地理的特性が
相まって、チベットは「神秘の国」と呼ばれ、世界中の探検家、
学者の関心を引きつけていた。

 また仏教学者にとっても、チベットは「神秘の国」であった。
チベット人は7世紀には独自の文字を持ち、8世紀後半からは、
その文字を用いて仏典翻訳の大事業を推進した。その結果、チ
ベット大蔵経がまとめられたのだが、インド本国で散逸してし
まった教典も含んでおり、仏教原典を求める学者たちがその入
手のためにチベット入りを志していた。慧海もその一人だった。

■3.「一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子」■

 河口慧海、幼名・定次郎(さだじろう)は、明治維新の2年
前、慶応2(1866)年に和泉国(大阪府和泉市)堺に、樽職人の
長男として生まれた。信心深い両親のもと、幼い頃から信貴山、
高野山などの仏教聖地に親しんで育った。

 15歳の時に読んだ『釈迦一代記』で、長い修行の末に悟り
を開いた釈迦が「一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子」
と言って、衆生救済の決意を胸に山を降りる姿に激しく胸を揺
すぶられた。そして自分も出家して、衆生救済のために一生を
尽くしたい、と願うようになった。

 家業を継がせたいと願う両親に、定次郎は出家の希望を説き
続けた。明治20(1887)年9月、仏教界の人材育成を目指す哲
学館という学校が東京に開かれた。定次郎はそれに入学すべく、
ついに両親を説得して、翌年春に上京した。23歳の旅立ちで
あった。

 東京では、授業料と生活費の月4円を、朝の5時から午後2
時まで団扇(うちわ)作りをして稼ぎ、その後、一時間歩いて
哲学館に通う、という極貧の苦学生生活を送った。

 明治23(1890)年、定次郎は数え年25歳にして、東京の羅
漢時にて得度を受け、慧海の名を与えられた。

■4.「ネパール或は西蔵(チベット)に行かなくてはならぬ」■

 慧海はその後、宇治の万福寺・別峯院に2年ほど籠もって、
仏教聖典の総集と言うべき大蔵経の読誦に取り組んだ。それら
の教典を分かり易く和訳して広めたいと志したのである。

 しかし、そこで一つの問題に突き当たった。例えば『法華経』
の漢訳は3種類あるが、それぞれにかなりの相違があった。

 素人にも解り易い経文を拵(こしら)へたいと云ふ考で
漢訳を日本語訳に翻訳した所が果たしてソレが正しいもの
であるかドウか、サンスクリットの原書は一ツであります
が漢訳の経文は幾つにもなッて居りまして・・・甚だしき
は全く其意味を異にして居るのもあり・・・何れにしても
其原書に依つて見なければ此経文の孰(いず)れが真実で
孰れが偽りであるかは分からない、是は原書を得るに限る
と考へたです。(『西蔵旅行記』上巻、1-2頁、[1,p98])

 しかし、どこでサンスクリット語の原典を得るか。

 大乗教の仏典なるものは仏法の本家なる印度には跡を絶ッ
て今はネパール或いは西蔵(チベット)に存在していると
云う。其原書を得る為には是非ネパール或は西蔵に行かな
くてはならぬ。(『西蔵旅行記』上巻、2頁、[1,p100])

 ネパールでサンスクリット語の仏典を発見したのは、19世
紀前半に英国東インド会社の駐在公使として21年も駐在した
ブライアン・ホートン・ホジソンであった。ホジソンは集めた
大量の仏典をロンドン、オックスフォード、パリの図書館や研
究機関に送り、ここからサンスクリット語による大乗仏教の研
究というまったく新しい学問分野が開けていった。

 これに刺激されて、日本仏教界でも、仏典研究において西洋
諸国に遅れをとってはならないと、チベット仏教探訪の必要性
が唱えられていた。例えば、慧海の哲学館での同窓生である能
海寛は『世界に於ける仏教徒』の中で、次のように唱えていた。

 日本仏教徒の責任として、同じ大乗仏教国であるチベットを
探検し、仏典の原典や釈尊の正伝を探究するとともに、両国仏
教徒の団結を計り、閉鎖国チベットの発展を図らねばならない。
特にロシアが北から、イギリスが西から、フランスが南から、
そして支那が東から迫っていて、チベットが一大戦場になりか
ねない今日、これは一日も猶予できない、と。慧海もまさしく
同様の考えであったろう。

■5.「何ぞ旅行費なきを憂へんや」■

 明治30(1897)年6月26日、慧海は数人の知人に見送られ
て、神戸港から日本郵船株式会社の貨客船・和泉丸に乗って、
出発した。日本にいても、チベットに関する正確な情報は手に
入らない。とにかくインド辺りまで出かけてみるしかない、と
考えていた。

 旅費の調達は思うに任せなかったが、「釈尊の教えられた最
も謙遜の行乃ち頭陀乞食(ずだこつじき、食を乞いながら野宿
などして各地を巡り歩いて修行すること)を行ふて行かんには
何ぞ旅行費なきを憂へんや」という気持ちだった。そして大阪
や堺の友人・信者たちが支援してくれた資金を手に、船に乗り
込んだのだった。

 シンガポールで英国汽船に乗り換え、7月25日にカルカッ
タ港に着いた。この年、インドは大飢饉に襲われ、餓死者10
数万人を出し、さらにペストが大流行していた。カルカッタに
本部を置く仏教徒の組織・大菩薩会の救援要請に応えて、日本
の各宗派が義捐金を送っていた。その縁で、慧海は大菩薩会に
宿を提供して貰い、さらにチベット語を習いたい、との希望を
聞いて、ネパール国境沿いの高原都市ダージリンに住むチベッ
ト学者サラット・チャンドラ・ダース(前述)への紹介状を書
いてくれた。

 ダージリンに慧海は1年5カ月間滞在し、チベット語を学び
ながら、情報収集に努めた。ダージリンから北東に向かえば、
すぐにチベットとの国境を越えて、首都ラッサに通ずる街道が
延びていたが、いくつもの関所でチベット兵が厳しい監視を行っ
ていた。

 慧海は、まずは大きく西に迂回して、ネパールに入り、そこ
からチベットへの道を探ることとした。1899(明治32)年1月
5日、ダージリンを出発した。

■6.非常識な大回り■

 慧海はネパールの首都カトマンドゥの近郊に1カ月余り滞在
し、各地から集まる巡礼乞食からチベットに向かう道の情報を
集めた。カトマンドゥから北のヒマラヤ山脈を超えて直接ラッ
サに向かう間道はいろいろあるが、どれも12回も関所を通ら
ねばならない。関所で尋問を受けたら、外国人でないかと疑わ
れる危険が極めて高い。

 しかし、カトマンドゥからさらに北西に200キロほども迂
回して、そこからチベットに入り、さらに200キロほど北西
のマーナサロワール湖を回ってから、1000キロ以上も東の
ラサに向かう、というコースをとれば、関所を通らずに済む、
という結論を得た。さすがにこんな非常識な大回りはチベット
側でも想定していなかったのであろう。

 慧海はカトマンドゥから200キロほど北西のチベット国境
近くの集落ツァーランに10カ月も留まって、土地の学僧につ
いてチベット仏教を学びながら、さらにチベットへの潜入路の
情報収集に努めた。じっくり時間をかけて慎重に情報を集めた
上で断行するのが、慧海の身上であった。

 ツァーラン滞在中にも、慧海は15人ほどに酒を止めさせ、
30人ほどに煙草の葉を噛んで辛い汁を飲む習慣を改めさせた。
どの地にあっても、人々をよい方向に導く事が、菩薩道を行く
者の任務と心得ていたのである。

 1900(明治33)年の新年を、慧海は例年のように天皇・皇后
・皇太子の万歳を祝する読経式で迎えた。3月10日、百人以
上の村人に見送られてツァーランを出発。

 そして、冒頭に述べたように、7月4日、チベットに入った。
日本を出てからすでに3年の月日が流れていた。

■7.「セライアムチ(セラの医師)」■

 慧海がチベットの首都ラッサに着いたのは、それから8カ月
も後の翌1901(明治34)年3月21日であった。それからまも
なく、中国人との触れ込みで、ラッサ北方の山裾にあるセラ寺
に入学を許された。この寺はラッサ3大寺の一つと称せられ、
当時7千人以上の僧侶が居住していた。

 ある日、散歩に出た慧海は、近くの僧坊の小僧が喧嘩で肩の
骨を外して泣き叫んでいるのに出会った。多少、接骨の心得の
ある慧海が直してやると、これが瞬く間に大評判となり、病人
が次々に押しかけてきた。仕方なく、慧海が中国商人の店から
漢方薬を買ってきて、病人たちに与えると、薬など飲んだこと
のないチベット人には見事に効いた。貧乏人からは薬代もとら
ず、活きた薬師如来様かと崇められた慧海は「セライアムチ
(セラの医師)」と呼ばれるようになった。

 この評判が法王ダライ・ラマの上聞に達して、目通りが叶っ
た。法王は「長くセラに留まって僧侶及び俗人の病気を治すよ
うに」と述べた。これを機会に、慧海はラッサの多くの上流人
士と交わるようになった。

 しかし、ダージリンで慧海に会ったことのある人物が、セラ
イアムチは日本から来た秘密探偵だと言い触らした。危険を感
じた慧海はすぐにチベットを脱出する覚悟を固めた。まず、ダ
ライ・ラマ宛に「世界に大乗仏教を護持する2大国、チベット
と日本が協力して、他の国々に正法を広め、衆生を涅槃に導く
大方便を法王から授けて下さる事を請うために、自分はチベッ
トに来た」との上書を書き上げた。

 ラッサで集めた書籍を荷造りしてカルカッタに送る手はずを
整えた。さらにセラ寺での先生や保証人などお世話になった人
々に金品を贈って恩を謝した。

 慧海がラッサから姿を消したのは、1902(明治35)年5月の
事であった。400キロほど南西に一直線に下り、インドのダ
ージリンに逃げ延びた。途中、5つの関所があったが、セライ
アムチの名声で押し通した。

■8.恩人救出のためのネパール入り■

 慧海は逃避行の途中でマラリアに罹り、ダージリンでしばら
く静養を続けた。10月になって久しぶりにチベットからの一
行がダージリンに到着したが、ラッサではセラ寺の教師や保証
人など、慧海と接触のあった人々が逮捕されるとの報をもたら
した。

 世話になった人々を罪に落としながら、自分一人逃げおおせ
るのは、日本人として耐え難いことである。慧海はその年のう
ちに、カルカッタに戻り、そこでつてを辿ってネパール国王へ
の紹介状を得ると、再びネパール入りした。

 ネパールはアジアの新興国家日本に興味を持ち、初の海外留
学生を日本に送り込んでいた。国王は慧海に会ってくれ、その
熱情にほだされて、ダライ・ラマへの上書の取り次を約束して
くれた。この上書は、恩人たちの釈放に一役買うことになる。

 1903年4月、慧海はボンベイから日本に向かう船に乗り込ん
だ。1カ月ほどの船旅であるが、故国が近づくにつれて、彼は
このまま帰るのが恥ずかしくなった。6年近くもインド、ネパ
ール、チベットをさまよったが、自分はもとの凡夫のままであ
る。しかし、一つの歌ができて、それが慧海の気持ちを軽くし
てくれた。

日の本に匂う旭日はヒマラヤの峰を照らせる光なりけり

 仏日の光輝は至らぬ隈なく宇宙に遍満して居りますから
何れの世界に行ッても修業の出来ぬ道場はない、日本も我
が修行の道場であると観ずれば別段苦しむにも及ばない。
(文責:伊勢雅臣)
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by laidbacktrip | 2010-05-17 13:44 | ネパール

人民戦争の最中、ズッコ家メイツ@ネパール

今回の日本からやってくるズッコ家WWP(ワールド ワイド パシリ)は、c0158636_22183471.jpg
過去最強の名古屋、大阪から4名様。
WWPとは、ワールドワイドパシリの略。国を超えてズッコ家に物資を届ける任務、というのを口実に、バックパッカー気分を短期間で濃縮に全力に楽しむ業務。


我が家を含めて6名でバックパック背負って、観光客エリアを安宿探しながら路頭に迷うなんて、まさにカモがネギ背負って日本から出汁まで持ってやってきました状態。
4名がいろんな妄想に暴走を重ねてやってくる。旅慣れしている人もそうでない人もいる。

ゴールデンウイークという名ばかりの短い滞在期間を有効にそして最大に楽しんでもらいたいと、我が家カトマンズ在住6ヶ月の奇薄なデーターを元に、今までのWWPでは考えられないほどの計画を立て、下見に下見を重ね、パーティーのフライヤーも作り、カトマンズの友人達にも告知し、ホテルも予約し、WWP史上完璧なズッコ家ツアーズを描いていた。
c0158636_22192097.jpg

しかしだが。。。
当日が近づくにつれ、マオイスト政権による無期限ストライキの告知。
ネパール人に聞けば、町は平和では無くなると言う。。。

うんざりするほど社会の機能がすべて止まるのは最大3日まで経験したことがあるが、今回は無期限。。。どうなるのか予測が付かない大規模のストライキ。
お国の政権交代ごときで国民生活は大荒れ。そりゃいつまでたっても最貧国だよ此処は。
基礎が間違っているから立て直しようがないね。
c0158636_1193941.jpgエンジンの搭載(飛行機以外)ものはすべて走行禁止、もし走ってマオイストにでも見つかれば殺されるだろう。もともと歩くスピードが似合う国だけど。
大型ショッピングモールもローカル商店もすべてシャッターが下りる。学校も会社も何も無い。なんなら水道水も電気もろくに無い。
まさに
「ナッシング トゥ ドゥ~  カトマンドゥ~♪」


ズッコ家メイツがネパールに到着した翌日に、予告どおり無期限ストライキ勃発。。。c0158636_22205049.jpg

計画していたパーティーもナガルコットもポカラも中止。
実際、バックパッカー旅を楽しむなら計画なんてぶっ壊されて良かったのかも。


滞在期間はストライキにより、いつもの混沌とした町は、排気ガスが無くなり空気が綺麗に、学校も会社も無期限休暇。車の無い公道では子供も大人もクリケットやサッカー、自転車に乗る練習をしていて、なんとも情勢とは裏腹に平和な時間が流れている。警察官もダレている。
ストライキも5日目頃には、国民が燻りだし、反マオイストとマオイストの銃撃戦などと、人民戦争。。。

安心大国日本では味わえない、ピリついた緊張感の社会情勢を垣間みることができた稀なズッコ家ツアーズも、社会の機能が停止する前日、聖地のボダナートで全員ブレッシングを受けたおかげか、何事もなく無事にみんなが帰国することができた。本当にホッとした。
c0158636_22241575.jpg
そして、みんなが去った後、嫁は38度の高熱で3日間寝込んだ...

次回は、どんな情勢の国でズッコ家ツアーズしようか~?


今回のWWPは、日本からハイテクな物資と日本食材が無事に届きました。
どうもありがとうございます。
そして帰国の際、嫁の作品を日本へ届けてもらうミッションも無事で何より、ありがとう!

c0158636_22212054.jpg2009年7月インド、バラナシの皆既日食を皮切りに絵を描くようになり、ネパールでボランティアしている際ひょんなことからカトマンズ元市長と宝石工場のネパール人社長に絵画を認めていただき、ジュエリーのデザインをする展開に。皆様宜しくお願いします。


嫁の作品ジュエリーサイト→http://keyjet.exblog.jp/
そのきっかけとなった絵画を愛知県で展示する(今秋~来年)ために数点WWPで日本へ。
その翌日、香港から絵画のオファー受けました。
日本より先に、海外で絵画展示デビュー予定。
皆様のおかげでズッコ家の旅路が成り立っているんだと日々感謝。
有難いです。
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by laidbacktrip | 2010-05-10 22:30 | ネパール

旅の再スタート

学校から提供されていたアパートの部屋の荷物を、ウキウキしながらバックパックに詰め直し。
我が家、ふたたび旅の駒を進める。
日常化した旅から、生活の非日常を体験。
たった6ヶ月のネパール滞在とは思えない出会いの数々。

なんて大げさ言ったりして。。。アジアには沈没している旅人も多く、一箇所6ヶ月滞在なんて小休憩にも何にもなんない時間単位。

さて、どこへ行こうかな~ 西へ向かおう!



旅再スタートの良き日に、日本から友人達がやってくる。

彼らと共に旅人再開。
あ~なんて素晴らしい日なんだろう~。

しかし。。。

明日から、かつてテロリスト扱いされていたマオイスト政権(中国毛沢東主義)の50万人デモ&ストライキ決行予定。商店も交通手段もすべて社会の機能が停止する。
ネパール人口3000万人。60分の1の人々がマオイスト集会に参加。
過激派が続々とカトマンズに大集結。。。町は異様な興奮と不安に満ちております。
血の気の多い山の民に対し、現政府は軍隊を配備。

今夜は「LAIDBACK@KATHMANDU」

今から、日本から来る友人達を空港まで迎えに行って来ます。
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by laidbacktrip | 2010-04-30 12:45 | ネパール

カトマンズ、土曜の夕暮れ

昼寝後の散歩は、見慣れた景色も異国だと感じる。

我が家の近所は、外国人が全くいない、ネパール人のみ。
車もバイクも自転車もほとんどない。
みんなテコテコ歩いている。
みんなボザ~っと道端で座り、談笑し、チャー(ミルクティー)を啜って微笑んでいる。
道では、子供たちが空気の抜けたサッカーボールを蹴り合い、少し年上のお姉ちゃんが子供の世話をしている。男たちはやはり賭博に勤しんでいる。
歩く速度よりも、さらに遅い速度が町に流れている。

ちょっと寄り道してドーナツ屋へ。と言っても小さなローカルショップ。
もちろんローカルエリアなので英語は通じない。
片言のネパール語で話す。
「おばちゃん、ドーナツ2つちょうだい」
「無いよ」
「パウンドケーキ風ならあるよ」
「一ついくら?」
「20ルピー」
「ドーナツより高いね」
「そうだね」
「昨日のドーナツならあるよ」
「昨日の?」
「じゃ、いらない」
「また来るね」
「またね」

またテコテコと斜陽の中の散歩。
治安が良い。
ゆるい。

異国だと感じる。


今夜は停電だから外食にそのまま歩いて行く。
100mに100人は、道にいる。
やたらみんなテコテコ歩いている。

200席ほどのMOMOが看板メニュー、ローカルに有名な「Bakery cafe」へ。
ネパールに何店舗もあり、ちょっと背伸びしていくファミレスみたいな店。
ほぼ満席の気持ち良いガーデンレストラン。
店員は全員、聾者。接客は手話かジェスチャー。キレのある教育の行き届いた接客業。店員同士は遠くても手話で会話ができるので、話し声は少ない。店員を呼びとめる声も無い。そして店内は音楽がかかっていない。

看板メニューのMOMO(餃子)を食す事にした。
ベジMOMO、チキンMOMO、バフMOMOの3種を、Steam,Kothey,Friedの3種の調理法から選ぶ。それ以外に「C,MOMO」と書いてあり、「C」って何だろう?と思いながらも、店員にこれを手話やジャスチャーでは質問出来ないし、聞いたところで結局好奇心で注文しちゃうんだからと。
出てきたMOMOは、「酢豚」にMOMOが入ってる。豚は入っていないので、酢MOMO。

毎日マサラ味なので、たまには西洋味、グラタンを食す事にした。
チーズ大国アルプスの麓の環境と何ら変わらない、ヒマラヤの麓は贅沢にもチーズが新鮮で濃厚、安くて旨い。100g=45RS(65円)野菜の甘みと新鮮な牛乳とチーズがこんがり焦げ目の下で溶け合う。いろんな野菜が入っていた。きゅうりも入っていた。

すっかり当りは暗くなった。
停電なので懐中電灯の明かりでテコテコ歩いて帰る。
100mに10人くらいは道にいる。

しかし、治安が良い。
ゆるい。

異国だと感じる。


昼寝後に安心して散歩できる環境って、何かの基準になる気がした。

今日も幸せだ。
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by laidbacktrip | 2010-04-24 21:44 | ネパール